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2014年8月21日、「黒子のバスケ」脅迫事件の判決公判が開かれ、渡邊博史被告人に求刑通りの懲役4年6月の実刑判決が下された。

「まさに八つ当たり」“黒子のバスケ”被告に実刑

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人気漫画「黒子のバスケ」を巡る脅迫事件で、被告の男に実刑判決です。

渡辺博史被告(36)はおととし10月、「黒子のバスケ」の作者の出身校・上智大学に硫化水素が発生している容器を放置したなどの罪で起訴されました。21日の判決で、東京地裁は「作者に対する強いねたみから犯行に及んだもので、動機はまさに八つ当たり」と指摘しました。そのうえで、「自己顕示欲を満たす行動に終始し、『反省する気はない』と豪語している。犯行は重大で悪質」として、求刑通り懲役4年6カ月を言い渡しました。渡辺被告は終始、淡々とした表情で、最後まで言葉を発することはありませんでした。

引用元: 「まさに八つ当たり」“黒子のバスケ”被告に実刑.

判決を受けての所感

当日に渡邊被告は次のようなコメントを発表している。

「黒子のバスケ」脅迫事件犯人の渡邊博史です。実刑は逮捕前からの想定通りですから、このことについて特別な感慨はありません。ただ正直に申し上げますと、もう娑婆に出たいという気持ちがほとんどありませんから、刑務所に4年以上も住まわせて頂けることが決定した今回の判決に自分は喜んでおります。「こんなクズを社会で面倒を見ないといけないのかよ。本当に腹が立つ」と自分についてコメントしていた某ミクシーの住人さんには、「努力教の自明性に溺れたお前らが納めた税金で、自分はプリズンニート生活を満喫させてもらうわ。ざまあwwww」
と申し上げておきます。

その後も挑発的かつ偽悪的な言い回しで検察や集英社とバンダイのお偉方をdisり、なぜか自分をネタにしてくれた腐女子に謝罪し、最後はこう締めくくっている。

今夜は自弁で事前に購入したお菓子でささやかな実刑判決のお祝いをします。宴の会場はとても快適なホテル東拘インA棟11階の独居房です。
それでは最後に「祝!喪服実刑!」などとツイートして下さってくれているであろうTwitterの黒バスクラスタの皆様たちに申し上げます。
「自分と一緒に喜んでくれて本当にありがとう!」

2014年8月21日喪服の死神こと渡邊博史

このコメントを自らのブログに掲載した月刊『創』編集長の篠田博之氏によると

渡邊被告は冗談めかして東京拘置所を「ホテル東拘イン」と呼んでいるのだが、聞いてみると彼はこれまでエアコンの効いた部屋で暮らしたことがなかったという。年収200万を超えたことがないという、ワーキングプアともいえる生活を長いこと送ってきた彼にとっては冗談でなく本当に拘置所は快適らしい。

ということのようで、取り立てて自虐キャラを演出しているわけでもないらしい。

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引用元:「黒子のバスケ」脅迫事件実刑判決についての渡邊被告のコメント発表!(篠田博之).

客観的な分析と文章構成力、そして言語感覚

そもそもこの脅迫事件そのものについては詳しくないワタクシだが、今年3月の初公判で被告本人が書いて裁判で読み上げた『冒頭意見陳述』のインパクトはとても大きかった。
自らに対する客観的な分析と文章構成力、そして「無敵の人」や「人生格差犯罪」といったキャッチーなフレーズを操る言語感覚に驚かされた。

また、なによりも印象的だったのは7月の公判で発表されたA4のレポート用紙44枚にも及ぶ『最終意見陳述』だった。
ここではその膨大な陳述の中から一部を抜粋し、犯罪者が自ら描いた心象風景を紹介していきたいと思う。

まず、大きな反響を呼んだ『冒頭意見陳述』に対する“ズレた論評”に悩んでいた頃、彼の元に一冊の本が差し入れられたという。

その本は子供時代に虐待を経験した大人が発症する「被虐うつ」という特殊な症例のうつ病の治療に取り組む精神科の著書でした。
自分はこの本を読んで、小学校に入学していじめられて自殺を考えてからの約30年間に、自分がどのような人生を送ってしまったのかを全て理解できました。自分が事件を起こしてしまった本当の動機も把握できました。ついでに申し上げれば、本人の著書を読んでもちっとも理解できなかった2008年の秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大被告の動機も理解できてしまいました。

彼はこの本を読んで「別人になった」という。
もっと適切な表現では「自分の人生が再スタートした」感じだという。
そして『冒頭陳述』は誤った認識で書かれたものなので「撤回する」としている。

認識を新たに自分の人生を改めて振り返ってみて、自分の事件とは何だったのかを改めて考え直しました。

ここから『最終意見陳述』の本題がスタートする。まずは言葉の定義から。

説明を始める前に自分が用いる8つの言葉を列挙しておきます。まず「社会的存在」です。これと対になる言葉は「生ける屍」です。「社会的存在」という言葉は先ほど申し上げました「被虐うつ」に取り組む精神科医の著者からの引用です。
次に「努力教信者」です。対になる言葉は「埒外の民」です。この2つの言葉は自分のオリジナルです。「努力教信者」の枠内での強者が「勝ち組」で弱者が負け組です。
さらに「キズナマン」です。対になる言葉は「浮遊霊」です。「浮遊霊」が悪性化した存在が「生霊」です。良性腫瘍が癌化するのに似ています。そして「浮遊霊」も「生霊」も「無敵の人」です。

独特の言語感覚が爆発している。
ネット的でオタク的でサブカル的な価値観を、ある意味リアルな“世間”に最適化しようとするような表現。
さらに定義だけでなく、その後に延々と続く見事な論理構成で綴ったロジカルな分析は、現代社会に表面化する親子関係や子育ての病巣をえぐって見せる。
その長文を引用してみたい。

「社会的存在」と「生きる屍」

人間はどうやって「社会的存在」になるのでしょうか? 端的に申し上げますと、物心がついた時に「安心」しているかどうかで全てが決まります。この「安心」は昨今にメディア上で濫用されている「安心」という言葉が指すそれとは次元が違うものです。自分がこれから申し上げようとしているのは「人間が生きる力の源」とでも表現すべきものです。
乳幼児期に両親もしくはそれに相当する養育者に適切に世話をされれば、子供は「安心」を持つことができます。例えば子供が転んで泣いたとします。母親はすぐに子供に駆け寄って「痛いの痛いの飛んで行けーっ!」と言って子供を慰めながら、すりむいた膝の手当をしてあげます。すると子供はその不快感が「痛い」と表現するものだと理解できます。これが「感情の共有」です。子供は「痛い」という言葉の意味を理解できて初めて母親から「転んだら痛いから走らないようにしなさい」と注意された意味が理解できます。そして「注意を守ろう」と考えるようになります。これが「規範の共有」です。さらに注意を守れば実際に転びません。「痛い」という不快感を回避できます。これで規範に従った対価に「安心」を得ることができます。さらに「痛い」という不快感を母親が取り除いてくれたことにより、子供は被保護感を持ち「安心」をさらに得ることができます。この「感情を共有しているから規範を共有でき、規範を共有でき、規範に従った対価として『安心』を得る」というリサイクルの積み重ねがしつけです。このしつけを経て、子供の心の中に「社会的存在」となる基礎ができ上がります。
またこの過程で「保護者の内在化」という現象が起こります。子供の心の中に両親が常に存在するという現象です。すると子供は両親がいなくても不安になりませんから、1人で学校にも行けるようになりますし、両親に見られているような気がして、両親が見てなくても規範を守るようになります。このプロセスの基本になる親子の関係は「愛着関係」と呼ばれます。
この両親から与えられて来た感情と規範を「果たして正しかったのか?」と自問自答し、様々な心理的再検討を行うのが思春期です。自己の定義づけや立ち位置に納得できた時にアイデンティティが確立され成人となり「社会的存在」として完成します。
このプロセスが上手く行かなかった人間が「生ける屍」です。これも転んだ子供でたとえます。子供が泣いていても母親は知らん顔をしていたとします。すると子供はその不快感が「痛い」と表現するものだと理解できず「痛い」という言葉の意味の理解が曖昧になり「感情の共有」ができません。さらに母親から「転ぶから走るな!」と怒鳴られて叩かれても、その意味を理解できません。母親に怒鳴られたり叩かれるのが嫌だから守るのであって、内容を理解して守っているのではありません。さらに「痛い」という不快感を取り除いてくれなかったことにより、子供は被保護感と「安心」を得ることができません。母親の言葉も信用できなくなります。感情と規範と安心がつながらずバラバラです。そのせいで自分が生きている実感をあまり持てなくなります。
幼稚園や小学校に進んでも「感情の共有」がないから、同じ日本語を喋っていてもあまり通じ合っていません。ですから同級生や教師との関係性の中で作られる「自分はこういう人間なんだ」という自己像を上手く作れません。これが自分が生きている実感をさらに希薄化させます。また規範がよく分からないので人となじめません。ある程度の年齢になれば頭で規範を理解できますが、規範を守った対価の「安心」を理解できません。規範は常に強制されるものであり、対価のない義務です。さらに保護者の内在化も起こってないので常に不安です。また普通の人なら何でもないような出来事にも深く傷つき、立ち直りも非常に遅いです。このように常に萎縮しているので、ますます人や社会とつながれなくなり「社会的存在」からは遠くなります。このような子供はいじめの標的になるか、極端に協調性を欠いた問題児になる可能性がとても高いのです。つまり学校生活を失敗してしまう可能性が高いということです。このことが子供の生きづらさをさらに悪化させます。
「生ける屍」には思春期がありません。感情や規範を両親から与えられず、人や社会とつながっていない「生ける屍」は、それらの問い直し作業をやりようがないのです。

「努力教信者」と「埒外の民」

人間はなぜ努力できるのでしょうか? それは努力の先に勝利などの報いがあるからです。少なくともあると信じられるからです。人間は参加資格のない大会に出場するために練習はできませんし、受験資格のない試験を受けるために勉強はできません。
人間が努力の先の報いの存在を信じるためには、肯定的な自己物語が必要です。これは特に凄い自己物語が必要という意味ではありません。「僕は○○が好きだから、プロの○○になりたい!」とか「私は○○になりたいから、その勉強ができる○○大学に入りたい!」ぐらいの自分の意志があればいいのです。つまり自分の人生に興味があればいいし、自分に可能性があると思えればいいのです。突き詰めれば無意識裡に「自分は幸せになりたい!」と思えてればいいのです。
ところが自分の人生に興味が持てなかったり、自分には可能性が皆無だと思い込んでしまう人間がいます。このような人間が「埒外の民」であり、負け組の中の「努力するという発想がなかった人間」です。
「埒外の民」は怠けて努力しないのではないのです。初めから報われる可能性がないと思い込んでいるから、努力することを思いつきすらしないのです。このような世界観が形成されてしまう原因となる主な出来事は虐待といじめです。
虐待によって「生ける屍」になってしまうと自分の存在感が希薄ですから、自分の人生に興味が持てず、自分の意志も持てません。また両親からの虐待を「僕が悪い子だったから酷い目に遭った」と考えて合理化しがちです。そのような子供はどうしても自罰感情に囚われて「僕は参加資格がない」「僕には可能性はない」などと思い込んでしまい努力する意欲を持ちようがありません。また「規範を守る対価としての「安心」を得る」というサイクルがしつけで身についていないので、努力が対価のない義務としか思えません。
いじめは人間が持つ根源的な「安心」を毀損します。いじめられた人間は強烈な対人恐怖対社会恐怖を抱くようになります。するとチャレンジするにも失敗したり酷い目に遭うことばかりがイメージされてしまいます。チャレンジする前にその恐怖と戦うだけで疲れ果ててしまうのです。またいじめられると「自分はダメだ」「自分はブサイクだ」「自分には無理だ」という自己イメージを持ってしまいがちです。そして「ダメな自分は努力しても無駄だ」という世界観を持つに至ります。この思い込みは簡単には改善しません。また意識的にか無意識かに関わらず「不幸にはなりたくない!」としか発想できなくなります。すると普通の人が前向きな努力に使えるエネルギーを人や社会からの逃走に使ってしまいます。いじめられっ子にとって、人や社会とつながることは不幸の始まりだからです。

引用元: 「黒子のバスケ」脅迫事件 被告人の最終意見陳述全文公開(篠田博之).

「キズナマン」と「浮遊霊」

「社会的存在」や「生ける屍」、「努力教信者」や「埒外の民」は、乳幼児期から思春期までの成人期以前の人間のパーソナリティを規定するものです。
問題はやはり大人になってからの精神の安定度かと思います。それを決めるのが「キズナマン」と「浮遊霊」です。「キズナマン」は「人や社会や地域とつながっている人間」です。このつながりを糸に例えます。この糸は鋼鉄管のように太くて硬い糸から絹のように細い糸まで強度は様々です。家族の血縁的な紐帯はとても丈夫な糸になることが多いのです。この糸の強度は家族や親族との物理的な距離とは無関係です。同居している家族と糸がつながっていないことも多いし、家族が故人でも「天国のお父さんに恥ずかしくない生き方をしたい」というような思いを持っている人は、天国のお父さんと糸でつながっています。恋人や友人も糸としての役目を果たします。仕事や地域とのつながりも同様です。つまり「社会的存在」であれば自動的に「キズナマン」になれるのです。

「浮遊霊」は「キズナマン」の対義語です。つまり「人や社会や地域とつながっていない人間」です。「浮遊霊」は人や社会や地域とのつながる糸が存在しないか、切れてしまっています。まさに糸が切れた凧の状態です。「浮遊霊」は浮遊しているだけですから基本的に無害な存在です。
この世は凄まじい風が吹き荒ぶ空間です。人間は風に飛ばされては生きられません。しかし大半の人は糸でつながっているので風が吹いても飛ばされることはありません。もし瞬間的に糸が切れてしまっても「安心」を持っていれば簡単に飛ばされません。「安心」は人間の魂を重くする効果があります。重量物は風が吹いても飛ばされません。
人間は風をやり過ごす薬を服用しています。この薬は2種類あります。オタク化とネトウヨ化です。

基本的にオタク化の薬は一時凌ぎ用ですが、よく効くと人や社会とつながる糸が仮設されます。例えば「AKB48のファン」だとか「人気コスプレイヤー」だとか「サッカーチームのサポーター」とか「ニコニコ生放送の生主」などというものです。これで人は「浮遊霊」にならずに済みます。
ネトウヨ化の薬も基本的には一時凌ぎ用ですが、人や社会とつながる糸が仮設されます。例えば「行動保守系団体の活動家」とか「デモ参加者」とか「自民党支持者」などです。またこれの究極バージョンとして「日本人」というものもあります。オタク化とネトウヨ化を混合したようなタイプの薬が、日本が絶賛される話ばかりを集めた「海外の反応」まとめブログだと思います。

 

この得体の知れない説得力はいったいなんだろう?
筆力の高さはもちろんのこと、まるで料理のレシピを説明するかのように淡々と的確に子育てと社会性を解説する犯罪者。
続いて自らの特異な生い立ちを描く彼の文章からは、当事者意識のないどこか他人事のような雰囲気が漂い、その視線がまた冷徹な迫力に溢れているのだ。

地獄だった小学校の6年間

自分は申し上げるまでもなく「生ける屍」かつ「埒外の民」でした。
自分は言葉を発するのが非常に遅く、3歳頃まで言葉を発せず、無言でよだれをダラダラと垂らしながら焦点の定まらぬ目で中空を眺めて座っているだけの子供でした。両親は自分が知的障害者だと確信して病院に自分を連れて行きましたが「異常なし」とのつれない診断を受けました。乳幼児期の時点で自分が何らかの脳機能的欠陥を持っていて「感情・規範・安心」のサイクルを上手く理解できなかった可能性が高いと思っています。
そのまま小学校に進学して物凄くいじめられました。これは「感情の共有」が上手く行っていなかった自分の変な子ぶりが招いた事態だったと今にして思います。当時は原因も分からず、ひたすらつらいだけでした。両親に助けを求めましたが、基本的に放置されました。担任教師も状況を知りながら、何もしてくれませんでした。ここで形成が不充分だった「安心」が致命的に毀損してしまい、強烈な対人恐怖と対社会恐怖を抱えるようになりました。また両親や教師など大人に対して決定的な不信感を抱くようになりました。それで「規範の共有」も上手く行かず「両親や先生に怒られるから守る」という典型的な外圧型の規範遵守人間になりました。小1・2の時の担任教師が異常な暴力教師でした。何に激昂するか子供だった自分には全く見当がつかず、ビンタをされるのが嫌だった自分は必死に担任教師の顔色を伺いました。これが習い性になってしまい両親を含む全ての大人の顔色を伺い、それから自分の行動を決めるようになりました。つまり自分の意志を持たないようにしてたのです。

自分にとって努力とは報いのない我慢であり義務でした。努力と対価としての勝利や夢の実現がつながってませんでした。
自分は運動神経がとても悪い子供でした。小1の時の運動会に徒競走は8人中ビリでした。母親はビリだった自分を詰りました。翌年の小2の運動会では8人中3位でした。体育の授業での課題を自主的に練習していて、それが影響したようでした。自分は喜び勇んで結果を報告しましたが、母親は無反応でした。その翌年の小3の運動会で、やる気を失くした自分は再びビリになりました。母親はもちろんビリだった自分を詰りました。徒競走に限らず、両親はいつもよい結果を無視し、悪い結果には怒りました。自分にとって努力とは怒られるなどの災禍を回避するための行為であり、努力の先に報いがあるとは思いもしませんでした。
自分は高校は地元一の進学校に行っています。自分にはその高校に行きたいという希望はありませんでした。それなりに勉強をした理由は、もしその高校に入らなければ両親に殺されると本気で思っていたからです。この時の勉強は努力ではありません。例えば道を歩いていて強盗に襲われて全力で走って逃げたとします。この時の全力の走りは果たして努力でしょうか?これは報いのないガマンとでも表現すべきものです。危機を回避するためにガマンが必要なときもあります。しかし人間はこのようなガマンを生涯にわたって続けることは不可能です。

長々と説明を致しましたが、自分が申し上げたことの意味がちっとも分からないという人も多いかと思います。ですから分かりやすくロールプレイングゲームにたとえたいと思います。
勇者は酒場で仲間を見つけてパーティを作り、街の外に出て仲間と力を合わせてモンスターと戦ってレベルを上げます。傷つけば母親の待つ実家に泊まって体力を回復します。レベルを上げている内に体力の最大値は増え、回復魔法も覚えて、実家に泊まる必要がなくなります。そして魔王を倒します。これが普通の人の人生です。
酒場で仲間になることを誰からも拒まれたり、モンスターとの戦闘で味方であるはずの仲間から攻撃されるのがいじめです。傷ついて実家に泊まって体力を回復しようとしたら、母親に宿泊を拒否されたり、母親から攻撃されて回復ができないという状況が虐待です。このような状態で自分が勇者であると信じられなくなった勇者が「生ける屍」です。体力が「安心」です。回復魔法が内在化した両親です。実家に泊まる必要がなくなった状態が自立です。勇者は「生ける屍」の呪いのため体力の最大値が増えませんし、回復魔法は覚えられませんし、街から遠くに行けません。仲間に対して不信感を持っている状態が対人恐怖で、レベル上げのために街の外に出る気が起きない状況が対社会恐怖です。レベル上げが努力です。魔王を倒すことが勝利であり努力の報いです。
そしてゲームのあまりの設定の無理さにやる気を失くしたプレイヤーが「埒外の民」です。「埒外の民」はゲームをクリアできなかったのですから負け組になってしまいます。「埒外の民」は自分のゲームの設定が狂っていることに気がついていませんから、やる気を失くした自分を責めます。しかし同時に負け組となったことに納得ができず説明ができない不満を抱えます。周囲も自分がやったゲームの設定を常識として物事を判断しますから「埒外の民」を怠け者としか理解できません。

引用元: 「黒子のバスケ」脅迫事件 最終意見陳述2 地獄だった小学校の6年間(篠田博之).

 

これはもはや“自己分析”ではなく“プロファイリング”だ。
「自らが犯罪に至った経緯を正当化する卑屈な文章だ」との批判も分かる。
「客観的な表現で自らの“闇”を描く強烈な自己愛がキモい」との批評も分かる。
が、このあまりにも切ない自己物語は上質なドキュメンタリーとしても、ドラマチックなフィクションとしても立派に成立している。
批判や批評を飲み込むパワーがこの文章には宿っているとワタクシは思うのだ。

彼は最後に社会に向けて、また前途ある少年たちに向けての至極真っ当なメッセージで結んでいる。

犯罪者からの心に迫るメッセージ

せっかくの機会ですので、世の中に対して真剣に申し上げたいことが幾つかございます。

虐待についても申し上げます。「虐待」という言葉は英語のabuseの訳語。abuseの本来的な意味は「濫用・乱用」です。drug abuseは「薬物乱用」です。ですからchild abuseの正確な翻訳は「子供乱用」です。虐待の本質とは「両親が自身の欲望の充足のために子供を乱用する」ということです。自分は「虐待の本来の意味は乱用」という理解が社会に共有されることを切に望みます。この理解が社会に共有されないと、日本人が子供が死に至るまでの身体的虐待かネグレクトしか虐待として認識できない状態がいつまでも続きます。

あと「心理的ネグレクト」という虐待カテゴリーの存在を広く社会に認識して頂きたいと思います。通常のネグレクトとの違いを説明します。子供が病気になっても両親がそれに気がつかず病院に連れて行かないのがネグレクトなら、病院に連れては行くが全く心配をせず「大丈夫かい?」の一声もかけないのが心理的ネグレクトです。充分な食事を与えないのがネグレクトなら、食事を与えても餌を与えるかのように出し「美味しいかい?」の一声もかけないのが心理的ネグレクトです。

刑事裁判において虐待やいじめの話が出ると必ず「で、それが何?自分も虐待されたしいじめられたけど犯罪なぞしていない!そういう物言いこそ虐待経験者やいじめ被害者に対する最大の侮辱だ!」などと主張する虐待経験者や元いじめられっ子がぼっとん便所に涌いた蛆虫の如くヤフーコメントやミクシーに大量発生します。自分はこのような「自称」虐待経験者や「自称」元いじめられっ子に向けて申し上げているのではありません。大変な生きづらさを抱えているのにその原因を把握できずに苦しんでいる方々に申し上げているのです。自分も生きづらさの原因が全く分からなかったために、このような事態に至ってしまいました。自分はつい最近まで小学校時代の6年間が地獄だったとはあまり認識していませんでしたし、母親が子供にその容姿について罵倒することは、どんな親子でも普通にされる会話だと思っていました。子供時代の体験をずっと引きずったまま行動していた自覚もありませんでした。生きづらさからの回復はまず原因の把握からスタートするのです。

「生きる力」とは何か?自分はここまで堕ちた人間ですから、それが何かがはっきりと分かります。それは根源的な「安心」です。「安心」があれば人間は意志を持てます。自分の意志があれば人間は前向きになれます。「安心」が欠如し、強い対人恐怖と対社会恐怖を抱き、肯定的な自己物語を持てない人間が「生きる力」がない人間です。

自分は小学校で同じ学年だった広野くんという男の子のことを思いつつ、この長文を書いていました。広野くんとは同じクラスになったことがないどころか喋ったことすらありません。広野くんは小1の秋に骨肉腫に憑かれて、片足の膝から下を切断する手術を受けました。広野くんが登校できるのは月曜日だけでした。朝の会と1時間目の授業だけを受けると、広野くんは入院先の病院に戻って行きました。残された片足と松葉杖を突きながら必死で歩く広野くんの姿を涙なしに見れる人間は誰もいませんでした。広野くんは闘病も虚しく小3の6月に亡くなりました。校長先生は臨時の全校集会で「とても頑張り屋さんだった」と広野くんを悼みました。元気だった頃の広野くんを知っていた同級生の女の子は「とにかく足の早い子だった。それからとても明るくていい子だった」と泣きながら自分に言いました。広野くんの発病時に担任だった先生は「苦い薬も痛い注射もガマンしたのにねぇ…..」と言って絶句し、その後に嘆き悲しみました。小学校時代はずっとこの広野くんのことが自分の頭から離れませんでした。自分は本気で、
「広野くんではなくて自分が癌になればよかったのに」
とずっと思っていました。
広野くんが生きていればきっと社会の役に立てる人間になっていたと思います。自分も生き地獄だった6年間の小学校生活を送らずに済みましたし、優しいお医者さんや看護師さんに面倒を見てもらえて、心安らかに人生を終わりにすることができたでしょう。何よりこんな気持ち悪い事件も起きませんでした。
自分が出所後の自殺の予定について申し上げたところ、
「てめえは生きたくても生きられなかった人たちのことを考えたことがあるのか!」
との説諭を受けました。大便製造機でしかない自分がこの世からの退場を選ぶことが、どうして生きたくても生きられなかった人たちへの侮辱になるのかが自分にはさっぱり理解できませんでした。しばらく考えて、自分に「生きる力」が欠如していたせいで「広野くんの分まで自分が生きよう」と全く考えられなかったことを咎められたのだと理解しました。
逮捕されてからの自分はとても人に恵まれていました。刑事さんは「もし渡邊さんが出所後に自殺したという知らせを聞いたら心が痛みます」と言って下さいました。検事さんからは「事件の調書を見て一度ならず何度も思ったんだけどもったいないよね。地頭はいいと思うし、手口もバカにできない巧妙な内容だ。本当はもっと世の中の役に立てたんじゃないかな」とそれこそもったいない言葉を頂きました。留置担当官さんは「あなたのことは応援しているからね。必ずどこかにあなたのことを必要としてくれる人は絶対にいるからね」と言って下さいました。
もし許されるのでしたら、出所してから自分は広野くんのお墓に花を手向けたいのです。その後に刑事さんと検事さんと留置担当官さんからの言葉を冥土の土産に無意味かつ無駄だった自分の人生を終わりにしたいと思っています。

長くなりましたが、最後に今の率直な気持ちをシャウトさせて頂きます。
「ベッキョナ!サランヘヨ!(ベッキョン!愛してる!」」
日本中の前途ある少年たちが「安心」を源泉に「生きる力」を持って、自分の意志を持って、対人恐怖と対社会恐怖に囚われることなく、前向きに生きてくれることを願って終わりにしたいと思います。
今回は本当にありがとうございました。

2014年7月17日   通名 邊博史(ピョンバッサ)こと在日日本人 渡邊博史

引用元: 「黒子のバスケ」脅迫事件 最終意見陳述6 EXOにこだわる理由(篠田博之).

▼参照

▼参照〈冒頭意見陳述〉

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柳沢忠之やなぎさわただゆき
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